沖縄・慰霊の日 平和へのメッセージ

 戦後76年目の慰霊の日である6月23日、新聞労連沖縄地連が平和のメッセージを発しました。以下、掲載します。

 世界中に猛威を振るっている新型コロナウイルスの感染がおさまらない中で、沖縄は戦後76年目の慰霊の日を迎えました。ここに、沖縄戦で戦没されたすべての御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。

 沖縄では、先の大戦において日本で唯一、地上戦が繰り広げられました。戦いは凄惨を極め、日米合わせて20万人余が犠牲になり、このうち12万2千人の県出身者が亡くなりました。民間人の死者が際だって多いことが沖縄戦の特徴です。

 新聞人もまた戦禍に巻き込まれた犠牲者でもあります。那覇市にある「戦没新聞人の碑」には、沖縄戦で戦没された14人の新聞人の名前と共に次の言葉が刻まれています。

 「1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは2カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている」 

 戦時中、新聞人としての使命を果たすため新聞の発行を続け、犠牲となった14人の冥福を祈り、戦時下での取材、新聞発行の過酷さを表しています。

 戦時中の新聞は政府・軍部による圧力に屈して、国民世論をあおり、戦争を推し進める一翼を担ってしまいました。権力を監視して、国民を守る立場に立つ本来の「新聞」の役割を見失いました。

 戦後、新聞人は戦争協力への深い自責と反省の下、再出発を果たしました。凄惨な戦火の中で、最後まで新聞を守ろうとした先輩方に敬意を表すると同時に、私たちは歴史の中で新聞人がたどってきた役割と責任を忘れてはいけません。

 沖縄が日本に復帰して49年。元号は昭和から平成、令和3年を迎えました。しかし、復帰時、沖縄が求めた「即時無条件全面返還」はいまだ実現していません。米軍基地は存在し続け、さらなる基地強化が進む中で「基地のない平和な沖縄」への道はほど遠い現状です。

 名護市辺野古では、県民投票7割「反対」の民意が示されたにも関わらず、政府は民意を黙殺し新基地建設の埋め立て工事が進んでいます。

 また、今の政治に目をうつすと、去った12日には、憲法改正手続きに関する改正国民投票法案が参院で可決、成立しました。菅政権は、憲法9条への自衛隊明記を軸とした改憲に明言した安倍政権の路線を継承し、憲法改正に向けた論議が進む可能性が出てきています。

 戦争の足音が再び聞こえてくるようです。戦前・戦中の反省に立ち、県民・国民の命を守る新聞人の使命を今こそ全うしなければなりません。

 コロナ禍で集会等の開催が困難になりましたが、全国の仲間とともにこの日の重みを共有し、平和への願い発信します。                  

2021年6月23日 新聞労連沖縄地連 委員長 慶田城 七瀬


(参考)「戦没新聞人の碑」について

(上の写真は、那覇市若狭の旭が丘に建立された戦没新聞人の碑)

 戦没新聞人の碑は、1961年9月、那覇市若狭の旭ケ丘に建立された。沖縄タイムスの前田宗信総務局長が共同通信の横田球生初代那覇支局長に「沖縄戦で亡くなった新聞人の慰霊碑を建てたい」と相談を持ち掛けたのが建立のきっかけとなった。朝日新聞、毎日新聞、琉球新報の賛同を得て、経費も各社で分担した。

 碑には、沖縄戦の犠牲となった14人の名が刻銘されている。沖縄に上陸した米軍が迫る中、1945年5月25日まで、首里城の第32軍司令部近くの留魂壕で新聞を発行していた沖縄新報の10人のほか、同盟通信のオペレーター2人、朝日新聞と毎日新聞各1人となっている。  

 ほとんどの方は本島南部で亡くなっているが碑の建設場所が那覇市内となったのは、本島南部とくに摩文仁はすでに各都道府県の慰霊碑が競って建てられようとしていたという事情が大きかった。那覇市内の静かな場所にひっそりとまつる方が新聞人にふさわしいとの考えから、波之上の護国寺境内(現在は公園内)に場所が確保された。

 慰霊碑の石は、前田総務局長が沖縄本島の北部・ヤンバルから黒大理石調の石を運んできた。字体はすべて新聞活字の明朝体とし、中央に大きく「戦没新聞人の碑」と刻み、右側に14人の名を並べ、左側に碑文を書いた。そして同年9月30日、除幕式を行った。

 捕虜になるよりはと一家で毒をあおいだ屋富祖徳次郎、カメラを持つことができず炊事役に徹して戦死した名越操写真部長、東京からの無線を聞くため弾雨の中、アンテナを命がけで修理しながら受信し続けた座波弘、真栄城嘉一郎という19歳の同盟通信オペレーター、1945年6月18日未明、摩文仁を脱出し知念岬を目指すも米軍の銃撃に倒れた下瀬豊、同年6月20日、マラリアに罹患し高熱と闘いながら摩文仁の壕でやはり米軍の銃弾を受けた宗貞利登。「戦没新聞人の碑慰霊の集い」は彼ら先人の霊の前に「戦争のために二度とペンを、カメラをとらない、輪転機を回さない」という思いをあらためて誓うものである。

(引用:横田球生氏「『戦没新聞人の碑』40年に思う 建立に携わった一人として」)

【碑文】 一九四五年春から初夏にかけて沖縄は戦火に包まれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヶ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した十四人の霊はここに眠っている

■戦没新聞人の碑に刻まれている14人のお名前(敬称略)

*沖縄新報:屋富祖徳次郎、阿賀嶺良謨、向井守一、名越操、嘉数能成、嘉数能得、松長孝恭、山城正章、上原源徳、上原木仁

*同盟通信関係者:座波弘、真栄城嘉一郎

*朝日新聞:宗貞利登

*毎日新聞:下瀬豊 

■建立委員(敬称略) 

*沖縄タイムス:高嶺朝光、前田宗信、当真荘平

*琉球新報:親泊政博、赤嶺勉

*共同通信:横田球生

*朝日新聞:林理介

*毎日新聞:三原嘉一郎