北海道新聞記者逮捕問題—語りづらさに宿るメディアの課題

道新記者逮捕問題を考える(2)

 「新人記者が国立大に建造物侵入の疑いで現行犯逮捕された」、報道のあり方の根幹にかかわるショッキングなニュースでありながらも、新聞各紙は逮捕の一報を除き、問題を検証・論評する記事は極めて少ない数にとどまっています。この問題の「語りづらさ」にこそ、メディアの課題が宿っているように感じます。
 背景を報じた数少ない記事の一つ、毎日新聞の7月3日付の記事では、大学側が取材の求めに応じず、メールのやりとりが中心で、そのメールも「回答は差し控える」など、実質的には無回答だったとしています。大学の情報開示に消極的な姿勢が背景にうかがえます。
 しかし、可視化された世論は厳しいものでした。
 南彰・新聞労連前委員長は逮捕の一報を受けて、「#道新記者の逮捕に抗議します」とツイートしました。近年は庁舎管理権が拡大し、記者の排除が強まっているとし、権限を持つ者の情報操作が容易になることへの懸念を訴えました。しかし、寄せられたリプライは、「不法行為を許すな」「庁舎管理が厳しくなったのは記者の自業自得」「思い上がるな」といった厳しい批判や攻撃的な言葉が並びました。
私たち新聞労連が逮捕を「行き過ぎ」とする声明を発表したのは7月12日、逮捕から20日が経過していました。北海道新聞社の社内調査を受けてまとめた声明ですが、「遅すぎる」との批判もありました。当人がどの時点で身分を明かしたのかなど、事実関係のあいまいさを考慮しても、入社まもない記者が現行犯逮捕され、2日間身体拘束された異常な事態について、もっと早く反応できたのではないかと、反省とともに振り返ります。
 取材先の意向に反するふるまい故に逮捕されたという衝撃だけでなく、現場に責任を押しつけるような会社側の姿勢、問題の背景が報じられない一方で、SNS上に並ぶ攻撃的な言葉の数々……それらを目の当たりにして、記者たちが不安や恐怖に駆られ、萎縮するのは無理もありません。メディア側の萎縮は、さらなる取材の制限や規制を招きます。それによって報道の質は低下し、メディア不信が加速する悪循環に陥りかねません。事態は深刻です。
 約20年前、私が入社した頃の話ですが、先輩記者の女性から「取材先とは〝正しいケンカ〟をしろ」と教わりました。不誠実な対応には真っ向から抗議し、立ち向かえ、という趣旨でした。かつての記者クラブには「うるさ型」の記者がいて、会見で時折カミナリを落としたり、嫌みを言ったりして、緊張感をもたらしました。パワハラと紙一重のケースもあり、純粋に「昔はよかった」と懐かしむ話ではありませんが、取材の自由を闘ってつかみとろうとする存在が身近にいました。しかし状況は変わり、権力に批判的な記者が名指しで糾弾されるようになりました。会社の経営不振で現場は記者の数が減らされ、「ケンカなんかしている余裕はない」のが実情です。
 そうした中で、不誠実な取材対応や一方的な取材規制が、日本全体でぬるっとまかり通るようになったのが、近年の傾向ではないでしょうか。今回の事件は、その延長線上にあると私は考えます。
 この原稿を書いている時点で、捜査は継続しています。その行方を注視しつつ、メディアが萎縮を深めていくことが市民社会にとっていかに損失であるか、私たちは訴えなくてはなりません。そのためにも、「正しいケンカ」が困難になった取材現場のいまについて、自らの言葉で語るべき時を迎えているのではないでしょうか。
 記者の多くは取材の舞台裏を明かしません。取材源の秘匿という報道倫理、取材先との関係維持や、同業他社の目線などが主な理由でしょう。しかし、取材のプロセスがブラックボックスであり続けてきたことも、報道が瀕する危機が市民の理解を得づらい今日の状況を招いてもいます。
 労連新研部では、アンケートなどの手段を使いながら、皆さんの声に耳を傾け、束にして示していきたいと思います。その際は、ぜひお声をお聞かせください。
 日々の報道が、市民の知る権利に応えているか、自分たちの営みと立ち位置を常に省みつつ、市民とともにある報道の姿を模索していかなければなりません。その思いを皆さんと共有できればと思います。
 なお、一部では、当事者本人を含む、現場取材の担当者たちが女性だったということで、性別を問題の要因の一つとして論じる向きがあります。その不適切さははっきりと断じておきたいと思います。女性記者への偏見を深めかねない言説は注意深く排除していかなければなりません。そのことは最後に強調しておきます。

新聞労連新聞研究部長・机 美鈴