ジャーナリスト・三宅勝久さん 私、1965年生まれの今53歳なんですけども、31歳の時に ―― 1997年、今から20年ちょっと前ですけども ―― 山陽新聞に記者として社会人採用で入りました。それまではフリーで外国に行ったりしてたんですけども、たまたま採用募集があったので、受けて採用いただいたと。
 まさにその97年に山陽新聞労組に入るんですけども、非常に感慨深いのは、さっき南さんのお話にあった取締役の日下さん。この方と初めてお目にかかったのが今から約20年前の私が会社に入った時で、当時、日下氏は「山陽新聞第一労組」(略称「一労」)という第二組合 ―― ちょっとややっこしいんですね、山陽新聞社は ―― 「第一労組」という第二組合の委員長をされていました。
 それで、私が社会人採用で一番年長だったので、組合に入らなきゃいけないというので「第一労組」のオルグに呼ばれまして、いろいろお話を聞いた後、何人かの同僚記者がいたんですけども、日下さんが「何か質問はないですか」と。
 みなさん黙っているので、ここで沈黙するのもよくないだろうということで、私が手を挙げて次のような質問をしたんですね。「私たちはこれから社会部というところに行って記事を書くことになるんですが、もし、経営者がおれたちの記事に口を出してきたら、組合はどうしてくれるんですか?」と。これはまあ、ほんの思いつきで聞いたんです。
 そうしたら、途端に日下さんの顔色がサーッと、気持ちのせいかも分かりませんが、ホントに青くなったような気がして。その後、福利厚生をしっかりやってるとか、関係ないことをずーっとお話しになり始めました。
 「いやいや、質問の答えになってません」と、しつこく3回ぐらい聞いてですね、そのうち「山陽(新聞)労組」という言葉が出てきて、悪口みたいな話がどんどんどんどん出てきた。「それはいいんですけど、どうなんですか?」と詰めたら、「組合としては何もしません」と言ったんですね。要するに、経営者が記事に介入しても組合は何もしないとおっしゃった。
 私はまだ試用期間中だったこともあって、クビにはなりたくないので「ああ、そうですか」と、そこは収めたんですけども、次の日から、私の住んでる社宅に同期の人たちが来て「山陽(新聞)労組に入るって、ホンマか?」というふうに情報収集が始まりました。
 「嫌なところだなあ」という印象を受けて、結果的に「新聞労連に入っている組合があるみたいだから、そっちのほうが何かと頼りになるかもしれないな」という、その程度の理由で山陽新聞労組に入りました。それが私と山陽新聞労組の出会いです。
 その日下さんが、20年たって取締役になられた。編集の責任を負う立場の役員ということですね。そして、まさに説明があったように、加計問題をめぐって非常に疑問を抱かざるを得ない報道を「山陽新聞」はしている。いろんな問題がここにあります。
 私がいま思っているのは、加計問題の全く解明されてない部分を解明する糸口がここにあるのではないか、ということです。このままウヤムヤにしてしまうのか、あるいは、これを切り開いて本当の真相にたどり着くことができるのかは、ひとつは「山陽新聞」と加計学園をめぐる、さっきの加計孝太郎さんの記者会見、このあたりをいかに世論といろんなみなさんの力を合わせて、こじ開けていくことができるのかどうかにかかっている。今はその端緒についている時じゃないかな、という感じがしています。

南労連委員長 ありがとうございます。三宅さんがいろいろ取材してきた成果というのは、今日みなさんにもお配りした「山陽新聞『越宗』会長は、加計学園『越宗』理事と同一人物なのか」というレポートにもあります。山陽新聞会長の越宗さんが、加計学園の理事もされているという問題です。
 その点を、三宅さんは山陽新聞に取材もされているんですよね。その時の山陽新聞の対応、どんなやりとりが繰り広げられたのかをお話しいただけますか。