組合の運動方針を理由に不当配転された私が当事者です

田淵信吾さん

山陽新聞労働組合 委員長

 「一番は好きじゃない。二番が好き。背番号もずーっと 『2』 じゃった」
少年野球でボールを追いかけたころから、岡山の古豪・県立玉島商業の野球部で主将を務めた高校時 代、そして社会人チームで汗を流す今にいたるまで、ポジションは一貫してキャッチャー。 「ピッチャーをいかに気 分よく投げさすか」 をいつも考えてきました。
 会社に臆することなく、言うべきことはちゃんと言う、モノ申す少数労組を 20 年以上、委員長として引っ張っ てきました。けれど 「わい、タイプ的にイケイケドンドンじゃないし、けっこう話し合い路線だと思うとる」 と、キャッチ ャーらしい(?)冷静な心理も。
 入社して 10 年間は、もうひとつの組合(社内で多数を占める 「山陽新聞第一労組」 という名の第二組 合)に入っていました。1990 年、でぇれー(とっても)労使協調のその組合ですら、倉敷工場の別会社化に 異を唱えて 「全面見直し」 の旗を掲げました。働く者の権利を守るうえでは当然の方針です。ところが、この方 針が一夜にしてガラッと変わり、別会社化の容認へと一気になだれを打ちました。民主的とはほど遠い、こんな 組織のあり方に大きな疑問を感じて、その組合を脱退。スジを通してたたかう山陽新聞労組に加入しました。 28 歳の決断でした。
 35 歳で委員長になった時、組合員は約 50 人いましたが、定年退職で徐々に減り続け、今は 3 人。もう ひとつの組合は約 300 人。状況は厳しいです。でも、気負いはありません。 「普通に正しく闘いおるだけのつも り、ただそれだけ。少数でもそれなりにやってきた。定期昇給カットをはね返したこともある」 。
 赤い服がトレードマーク。新聞労連の大会で発言する時も、ふだん着も、勤務中の制服の下も、必ず赤いシ ャツやトレーナーです。 「パンツも赤。タンスの中もぜーんぶ赤」 。真っ赤に燃える委員長は、カープではなく熱 烈な虎ファンです。

たぶち・しんご 1961 年、岡山県生まれ。79 年、山陽新聞社に入社。90 年、山陽新聞労組に加入し、 96 年から委員長。倉敷市内で妻と娘2人、チワワ2匹と暮らす。

加賀光夫さん

山陽新聞労働組合 副委員長

 「こんなの、やっとれるか!」 。そう憤ったのは、組合を移る腹を決めた 1990 年初め のこと。当時 34 歳、入社して 16 年。毎日、新聞を印刷するために輪転機を回す 「輪転工」 として脂ものってきました。今のハイテク機械と違い、インクまみれの重労働をこなしながら、新聞労連に非加盟 の 「山陽新聞第一労組」(略称 「一労」=いちろう)では職場の声を代表する中央委員も務めていました。
 当時、倉敷市に新しい印刷工場ができました。会社は 「別会社化」 を言い出し、山陽新聞労組は「反対」 。一労 も 「全面見直し」 を求めました。ところが、ある日を境に突然、一労は別会社化の容認に走ります。職場内の強い反対 論をひっくり返そうと、一労の幹部が前夜、組合員らに電話攻勢をかけて、強引に説き伏せたと後で知りました。私には 電話はありませんでした。みんなで決めた組合の方針を、一夜で 180 度ひるがえすやり方に納得できず、一労を脱退。スジを通してたたかう山陽新聞労組に入りました。
 あれから 28 年。定年まで2年を切った昨年5月、老朽化した岡山市内の本社工場は閉鎖に。印刷で働き続けるに は、早島町にできた新工場へ行くしかありません。でも、会社は私を早島工場に出向させませんでした。倉敷工場のとき から 「別会社化に反対」 してきた山陽新聞労組への報復です…。実は、当初は早島工場で働ける見通しでした。新 工場で着る制服の採寸も済んでいたのです。「愛着のある仕事を最後まで全うして、卒業(定年退職)したい」 という 願いは、直前になって会社に踏みにじられてしまいました。
 労働者の分断は昔からです。そもそも一労は、会社が山陽新聞労組を分裂させて作った組合です。一労にいたころは 「あれ(山陽新聞労組の組合員)とものを言うな。遊びにも行くな」 と言われました。でも、そんなこと無理じゃ。印刷は 1 人じゃない、集団作業じゃ。そこに 「差別」 と 「分断」 を持ち込む会社の、なんと非人間的なことか。
 いまは異議をとどめて、編集局の工程管理部という職場で働いています。早島工場の稼働状況に目を配り、悪天時は 新聞製作の工程を早めたり輸送ルートを変更したりと、あわただしくなる部署です。手元のモニター画面に常時映るの は、自分も行くはずだった早島工場の輪転機、ともに働くはずだった同僚・後輩たちの姿です…。
 うれしかったことがあります。早島工場へ行った後輩ら、印刷職場の有志 20 人ほどが飲み会を開いてくれました。 「み んな待ってますから、早く帰ってきてください」 と言われました。私は涙があふれました。

かが・みつお 1955 年、岡山県生まれ。74 年、山陽新聞社に入社。90 年、山陽新聞労組に加入し、 97 年から副委員長。趣味は釣りで、四国のほうまで足をのばします。倉敷市在住。